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誤読の原因――「受験テクニック至上主義」の陥穽
2006年11月27日 廣田鉄斎
 
最上なのは、みずからすべてをさとるひと、
また、よき言葉に従うひとも立派なもの
だが、みずからもさとらず、
他に聞くもこころにとどめないのは
せんなきやから。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』岩波文庫版、上巻22頁)
 
 
ネットの検索で「アリストテレス」について調べていたら、以下のような「珍説」に出くわした。K塾ライセンススクールのF講師による「英語攻略の技術」「怪説」である。どうやらこれは、大学生向きのコラムらしい。いまどきの学生の学力水準もさることながら、F氏の文章を味読すれば、予備校講師の知的水準、そして「受験教育」なるものの正体が透けて見える。リンクが切れてしまう可能性もあるので、(「証拠保全」のため)関係部分をまるごと引用させていただく。出典は、
 
http://www.kals-net.jp/news/number06/12.html
 
である。
 
 
(以下、引用)
 
英語が苦手な人のための英語攻略の技術
(『キャリアサーチング』2006年12月号)
 
進学するにしても、就職するにしても、英語力が問われることに変わりはありません。英語は苦手ということで済ますわけには行かないのです。ここでは、英語で一番重視される読解の攻略法を技術として紹介します。(引用中断)
 
――「技術として」の「読解の攻略法」という発想それ自体に問題がある。そもそも英語は、コミュニケートするものであって、「攻略」するものではない。百歩譲って「攻略」するものだとしても、英文読解(いっぱんに文章読解)は、小手先の「技術」で「攻略」できるような、なまやさしいものではない。(以下、引用再開)
 
「英語が苦手」という方の多くが、英文読解を誤解しています。「単語」「熟語」「文法」を暗記して、それを実際の英文に当てはめて解釈することが、英文を読むことだと思っているのです。「単語」「熟語」「文法」は、言わば、家を立てる際の建築資材にすぎません。建築資材がなければ、家は建てられませんが、いくら建築資材を調達しても、家を建てる技術がなければ家は建ちません。建築技術があって、初めて資材が生きてきます。英文読解は、「単語」「熟語」「文法」といった断片的な知識を、有機的に結びつける技術を習得することで、初めて可能になるのです。(引用中断)
 
――「単語」「熟語」「文法」の知識だけでは文が読めない、というF氏の指摘は、そのかぎりでは、しごくまっとうな指摘である。しかし、「断片的な知識を、有機的に結びつける」ために必要とされるものは、「テクニック」や「ノウハウ」といった、狭い意味での「技術」ではありえない。この点については、あとでたちかえる。
 
F氏は続いて、「ここでは、その基本的な技術を四つ紹介します」と言って、具体例にそくした説明をおこなっている。(以下、引用再開)
 
1)動詞+名詞+α(αは何でも良い)の形式の読み方
この形式の文は動詞の後ろに文が埋め込まれている(隠れている)ように読めば文の意味の骨子が大抵わかります。(引用中断)
 
――これは、昔ながらの表現を使えば「ネクサス」、F氏によれば「埋め込み文」(チョムスキーの変形生成文法に由来する用語)である。わたしも、ときどき「文が隠れている」という言い方をすることがある。(以下、引用再開)
 
The rain compelled us to stay indoors.
「雨のために我々は外に出られなかった」
 
この文の場合、compelledという動詞がわからなければ、<us to stay indoors>の部分を埋め込み文と考え、usをその主語、to stay indoorsを述語とみなします。不定詞は、歴史的に見れば、前置詞to+名詞ですから、埋め込み文の意味は「私達が屋内に留まるという行為の方へ行く」となります。したがって、compelledの意味がわからなくても、文全体の意味の骨子は「雨によって私達は屋内に留まるようになった」だとわかります。
 
Her attitude rendered him speechless.
「彼女の態度に彼はことばを失った」
 
この文でrenderedの意味がわからない場合には、<him speechless>の部分を埋め込み文と考え、himをその主語、speechlessを述語とみなします。この部分を「彼がことばを失う」といった意味に解すわけです。こうした状況は「彼女の態度」を主語とするrenderという動詞によって起こったと考えられますから、文全体の意味の骨子は「彼女の態度によって彼はことばを失った」となります。(引用中断)
 
――(「大学生にもなって、compelやrenderの意味くらいは覚えておけよ」と言いたいところだが、それは我慢することにして)たしかにこれはなかなか便利な読み方のようにみえる。しかし、「意味の骨子が大抵わかります」とF氏も言っているように、「大抵」わかる――つまり、そういう読み方ができる「こともある」――というだけの話であって、この「基本的な技術」の濫用が、かえって誤読の原因となる「こともある」。つまり、「大抵」の場合は、間違いのもとになるのだ。たとえば、
 
She promised me to stay indoors.→「私が屋内にとどまった」のではない。
 
She rendered us a great service (by her help).→「わたしたちが大いに奉仕した(役立った)」のではない。(以下、引用再開)
 
 
2)動詞+前置詞+名詞の形式の読み方
 
この形式の文は、動詞を無視して動詞のかわりに前置詞を動詞のように読めば動詞の意味がわからなくても文全体の意味の骨子は大抵つかめます。
 
I abstain from smoking.
「私は禁煙している」
 
この文でabstainがわからない場合は、この動詞を無視して、前置詞fromを動詞のように読みます。from+名詞は、名詞を出発点にしてそこから離れる、という意味ですから、「私は喫煙から離れている」という文全体の意味の骨子が把握できます。
 
Next, the wheat is ground into flour at the mill.
「次に小麦は製粉所で小麦粉に加工される」
 
この文で、is groundという受動態の動詞がわからなければ、この動詞を無視してintoを動詞のように読みます。 into+名詞は「名詞に入る」、「名詞に変わる」ですが、into flourを「小麦は小麦粉の中に入る」と読んでも意味を成さないので「小麦は小麦粉に変わる」と読み、文の意味の骨子がつかめます。(引用中断)
 
――この「技術」は、ほとんど無内容であって、あまりにひどい。上の例では、たまたま前置詞の意味に比して「動詞」の意味が「弱い」から、また、前置詞が from や into だから(たぶん out of や away from や off や beyond などの場合も?)かろうじて成り立つのであって、すべての「英文読解」にさいして、こんな子供だましの「へっぽこ技術」に頼っていたら、文の意味を主観的にねじ曲げてしまうか、「多義性」の靄(もや)のなかで、途方に暮れるしかない。これは「勝手読み」を誘発する「悪しき技術」である。たとえば、以下の例をみよ。
 
I am independent of my parents.→「私は、私の両親に属している」のではない。
 
He was educated in economics.「彼は、経済学の中に」「中で」「において」・・・?
  
いっぱんに、動詞が文構造の根幹をかたちづくっている。だから、動詞(型)の意味と用法の習得をさしおいて、搦め手(たとえば前置詞)から「攻略」しようという方針は間違っている。そしてなによりも、

F氏の「基本的な技術」は「Fallacy of Hasty Generalization(一般化の誤謬)」――すなわち、過度の一般化に陥っている。(あるいは、すくなくとも、生徒・学生の過度の一般化を誘発する。)
 
かつて『国語入試問題必勝法』(清水義範)というパロディ小説があった。悲しいことに、こうした「インチキ必勝法」のたぐいが、「受験界」では今でも「堂々と通用」しているらしい。
 
 
行く先々、また結末に至るまで、最善となるべきことごとを思いめぐらし、
万事をみずから思量できる者こそ、類いなく優れた人間であるが、
他人の善言に従う者もまた、善き人間じゃ。
だが、みずから思わず、他人の言葉を聞くとも
心に留めぬ者は、何の役にも立たぬつまらぬ男じゃ。
(ヘーシオドス『仕事と日』岩波文庫版290頁)
 
(以下、引用再開)
 
3)比較の原理を利用した読み方
「比較・対比・対立関係にある2つのものは同種で同様に扱われる」という比較の原理は、狭義の比較文だけでなく、一般に二つのもの(人や事柄も含む)を問題にする(広い意味で比較する)場合に適用されます。(引用中断)
 
――この「基本的な原則」は、使いようによっては、たしかに大変役に立つ。しかし、以下のような場合は、どうであろうか。(以下、引用再開)
 
Sugar is bad for your teeth. It can also contribute to heart disease.
「砂糖は、また、心臓病の一因になる可能性もある」
 
この文で、contribute to…という表現(「…の一因になる」)がわからない場合を考えてみましょう。普通はcontribute to…は「…に貢献する」という意味ですが、「heart disease(「心臓病」)に貢献する」では意味をなしません。alsoという語がヒントになります。
 
alsoは、「(も)また」という意味です。「(も)また」は「もと」になる表現がなければ使わない言葉です。したがって、この言葉が使われている時には、少なくとも二つのものが問題になっており、比較の原理が適用されていると考えることができます。
 
Sugar以下の前者の文は、歯に対する「砂糖」の悪影響を述べた文です。It=Sugarですから、alsoの存在が示す比較の原理によって、It以下の後者の文も何らかのものに対する「砂糖」の影響を述べた文だということがわかります。
 
後者の文中に、前者の文の歯(teeth)と、人体の部位として同種である心臓(heart)が、心臓病(heart disease)という語の構成要素として存在することに注目すれば、disease(「病気」)の中には、bad(「悪い」)が意味的に含まれていることから、この文が、心臓に対する「砂糖」の悪影響を述べた文であることがわかります。したがって、後者の文の大まかな意味は「砂糖は心臓にも悪い」となり、文全体の意味の骨子がわかります。(引用中断)
 
――F氏が、この文を「しかし、砂糖はまた、心臓病の薬となる可能性もある」と読まなかったのはなぜだろうか。それはおそらく、F氏の「直観」ないしは「先入観」があったからであろう。このばあい、F氏の「直観」は、たまたま「当たった」。しかし、「直観」が「大外れ」することもある(F氏の「大外れ」については、あとで見る)。いずれにせよ、contribute to…という表現の意味ぐらいは覚えておきたいものだ。そうすれば、こんなにまわりくどい(しかも論理的に隙間や飛躍が多すぎる)推論――ないしは「直観」――に頼らなくても済む。
 
――さて、以上は「序の口」である。F氏の「怪説」の「きわめつけ」は、彼のいうところの「英文読解の最も役に立つ技術」である。(以下、引用再開)
 
 
4)論理展開の基本原則を利用した読み方
 
英語には、「何かを述べるとその後に説明や例を続け、述べたこととその説明や例の双方に意味または形の上で同様の表現が現れる。これらの表現は、全て論理的に同じものと考える」という論理展開の基本原則があります。この原則を応用した読み方ができるようになると、難しい英文でも速く的確に読むことができます。この原則を応用して英文を読む技術は英文読解の最も役に立つ技術です。
 
The sense in which Aristotle had spoken of politics as the“master science”was still a current one in the eighteenth century ,and it was in this sense that Hume spoke quite simply but comprehensively of politics as dealing with“men united in society and dependent on each other.”
 
(注)speak of A as B「AをBと言う」、it was in this sense that…:in this senseを強調する強調構文
 
◆誤訳例:「アリストテレスが政治学を「諸科学の王」と言った意味は18世紀にも依然として成り立っており、この意味でヒュームは政治を極めて簡明に、しかし包括的に、「社会の中で結合し、互いに依存しあう人間」を扱うもの、と言った」
 
ここに挙げた訳例は、ある市販の大学院入試用問題集のものですが、何を言っているかわからない誤訳です。
 
何故このような誤訳が生じるのでしょうか。
 
英語の論理展開の基本原則を無視したことが原因です。
 
「この意味で」という表現から明らかなように、 politicsに関する “master science”という表現と、dealing with“men united in society and dependent on each other.”という表現には、論理的に同じものが含まれていなければならないのに、「諸科学の王」という表現と、「社会の中で結合し、互いに依存しあう人間」を扱うものという表現の間には、そうしたものが含まれていないため、両者つながりは非論理的なものになっています。
 
両者の表現が論理的つながりを持つためには、“master science”はdealing with “men united in society and dependent on each other.”(「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」もの)でなければなりません。“master science”は「諸科学の王」ではなく「統治者の学問」(master=ruler)となります。
 
◇解答例:「アリストテレスは、政治学は「統治者の学問」である、と述べた。その意味は18世紀になっても変わらなかった。ヒュ−ムが、政治学は「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」ものである、と簡潔に且つ包括的に述べたのは、この意味においてであった」(引用終り)
 
――なるほど、と思わせるような見事な「怪説」である。しかし、これは明らかに間違っている。F氏によれば、
 
Xという命題とYという命題が並んでいたら、この二つの命題を結ぶ「論理」的な可能性はひとつしかない?
 
X(砂糖は体に悪い)→Y(砂糖はまた、××)
 
このばあい、××に入る「正解」は、「心臓病にも悪い」だけであって、「心臓病の薬にもなる」は「不正解」である??
 
X(アリストテレスは、政治学は「××」である、と述べた)→Y(その意味は18世紀になっても変わらなかった。ヒュ−ムが、政治学は「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」ものである、と簡潔に且つ包括的に述べたのは、この意味においてであった)
 
このばあい、××に入る「正解」は、「統治者の学問」だけであって、「諸科学の王」は「不正解」である???
 
みられるように、F氏の「英文読解の最も役に立つ技術」とは、いわば、二点を「直線」――読み手の「常識」や「直観」――で結ぶ読み方のことである。だが、この「常識」や「直観」というやつが曲者(くせもの)だ。
 
おそらくK塾ライセンススクールのF講師は、アリストテレスを一度も読んだことがないのだろう。「政治学」の教科書を読んだこともないのであろう。この「怪説」を書くにあたって、アリストテレスの原典や「政治学」の教科書にあたる「閑暇(スコラ)」は言うまでもなく、master scienceという言葉をネットで検索する「閑暇( schola)」もなかったのであろう。要するに、F氏には「常識」や「学識(scholarship)」が――そして、何よりも「知的誠実さ」が――なかったのであろう。だが、そういう人間が、傲慢にも、じぶんの限られた「常識」や「直観」(そして、怪しげな「論理」)だけで、すべてを「解釈」しようと企てると、とんでもない「改釈」や「怪釈」が生まれてくるのだ。
  
それにしても、F氏の、
 
「ここに挙げた訳例は、ある市販の大学院入試用問題集のものですが、何を言っているかわからない誤訳です。何故このような誤訳が生じるのでしょうか。英語の論理展開の基本原則を無視したことが原因です」
 
という強気の断定は、どういう(無)神経から生まれたのだろうか。F氏は、「何を言っているかわからない」原因が自分の無知にある(のかもしれない)可能性について、ちょっとでも反省(reflect)してみたことがあるのであろうか。
 
 
◇アリストテレス『ニコマコス倫理学』の冒頭部分(1094a-1095a――岩波文庫版による)。
 
いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。
 
・・・だが、実践とか技術とか学問とかにもいろいろ数多いものがあって、そのそれぞれの目的とするところもまた、たとえば医療は健康を、造船は船を、統帥は勝利を、家政は富を、というふうにいろいろなものとなってくる。いまもし、こうした営みの幾つかが或る一つの能力の下に従属するとすれば、――たとえば馬勒(くつわ)制作とかその他すべての馬具の制作は騎馬に、そうしてこの騎馬やその他すべての軍事はさらに統帥に従属しているし、その他の場合にあっても同じような従属関係が見られる――、そこはではおよそ、棟梁(master)的なもろもろの営みの目的のほうが、これに従属する営みの目的よりも、より多く望ましいものなのである。なぜなら前者のゆえに後者は追求されるのであるから。
 
・・・かくしていま、およそわれわれの行なうところのすべてを蔽うごとき目的――われわれはこれをそれ自身のゆえに願望し、その他のものを願望するのもこのもののゆえであり、したがってわれわれがいかなるものを選ぶのも結局はこれ以外のものを目的とするのではない、といったような――が存在するならば、(まことに、もしかかるものがなければ目的の系列は無限に遡ることとなり、その結果われわれの欲求は空虚な無意味なものとなるであろう、)明らかにこのものが「善」(タガトン)であり、「最高善」(ト・アリストン)でなくてはならない。
 
・・・このこと(「善」)は、だが、最も有力な最も棟梁(master)的な位置にあるところのものに属すると考えられるであろう。ところで、こうした性質をもつと見られるものに政治(ヘー・ポリティケー)なるものがある。というのは、国(ポリス)においていかなる学問が行なわるべきか、各人はいかなる学問をいかなる程度まで学ぶべきであるかを規律するのは「政治」であり、最も尊敬される能力、たとえば統帥・家政・弁論などもやはりその下に従属しているのをわれわれは見るのである。それは他のもろもろの学問を役立てるものであり、さらにまた何をなし何をなさざるべきかを立法するものなるがゆえに、それの目的は他のもろもろの学問の目的を包括しており、したがって、「人間というものの善」こそが政治の究極目的でなくてはならぬ
 
 
◇(英訳版、Harris Rackham訳)
 
...the ends of the master arts are things more to be desired than the ends of the arts subordinate to them; since the latter ends are only pursued for the sake of the former.
 
Now it would seem that this supreme End must be the object of the most authoritative of the sciences ―― some science which is pre-eminently a master-craft. But such is manifestly the science of Politics; for it is this that ordains which of the sciences are to exist in states, and what branches of knowledge the different classes of the citizens are to learn, and up to what point; and we observe that even the most highly esteemed of the faculties, such as strategy, domestic economy, oratory, are subordinate to the political science. Inasmuch then as the rest of the sciences are employed by this one, and as it moreover lays down laws as to what people shall do and what things they shall refrain from doing, the end of this science must include the ends of all the others. Therefore, the Good of man must be the end of the science of Politics. For even though it be the case that the Good is the same for the individual and for the state, nevertheless, the good of the state is manifestly a greater and more perfect good, both to attain and to preserve. To secure the good of one person only is better than nothing; but to secure the good of a nation or a state is a nobler and more divine achievement. This then being its aim, our investigation is in a sense the study of Politics.
 
すでにF氏の誤りは明白だと思われるが、だめ押しをしておこう。以下は、各種「政治学」の「入門サイト」からのランダムな引用である。
 
◇Politics affects everyone. It is through politics that the future of the world we inhabit is shaped. Aristotle called politics the master science because he recognized how wide and pervasive politics is...

http://www.brocku.ca/webcal/2002/undergrad/POLI_main.html
 
Aristotle called politics the master science. We may be a bit prejudiced, but we think he was right. The study of politics -- local, state, national and international -- is the study of people and societies struggling with the great and enduring issues -- war and peace, order and freedom, justice and equality. Understanding how and why those issues are resolved, or fail to be resolved, is at the heart of what we study. We believe that there is nothing more fundamentally important to social life than understanding how we as individuals and as a society address these issues through the political process.

http://web.arizona.edu/~polisci/undergrad/up_handbook.html
 
以下は日本のサイト(『千葉大学法経学部法学科データブック2001』、p13より)からの引用である。
 
◇そもそも,その古典的な出発点(ギリシャ等)においては,政治学は「公共世界(=ポリス)についての学」であり,人間にとっての最高善としての「幸福」を実現するための棟梁的な学問[マスター・サイエンス],いわば諸学を統括する学問の王とされていました(アリストテレス)。今日では,このような総合的・包括的大政治学から経済学・社会学等の社会諸科学が分化して,それらと並立する小政治学が一般的な姿になっていますが,かつての雄姿の残照はまだあちこちに残っていますし,私自身はさらに「本来の(大)政治学=公共世界学」の再建を志しています。人類の幸福の実現という崇高な夢に賭けてみたいという若人が,一人でも多く政治学の門を叩くよう願って止みません。(小林正弥)
 
http://homepage2.nifty.com/kobayashizemi/politic-kobayashi.htm
 
――ようするに、アリストテレスは「政治学(ポリスの学)」を「諸学の王」(棟梁的学問)と呼んで、いわば「特別扱い」していたのである。
 
したがって、F氏のいう、「ある市販の大学院入試用問題集」の「誤訳例」なるもの(「アリストテレスが政治学を「諸科学の王」と言った意味は18世紀にも依然として成り立っており、この意味でヒュームは政治を極めて簡明に、しかし包括的に、「社会の中で結合し、互いに依存しあう人間」を扱うもの、と言った」)は、たしかにややぎこちない訳ではあるにしても、基本的には、正しかったのである。――たとえ、アリストテレスについての「基本的な知識」を持たないF氏にとっては「何を言っているかわからない」訳であったにせよ。
 
ところで、アリストテレスの時代には、(近代科学と同様の意味での)「科学」という概念は存在していなかったから、「諸科学の王」は「諸学の王」という訳のほうが無難であろう(「さまざまな学問を統括する最高の学問」という意味)。さらに、「ヒュームは政治を」は、「ヒュームは政治学を」、「を扱うもの」は、「を学の対象として取り扱うもの」のほうが適切であろう。また、「社会の中で結合し」は、「結合して社会を形づくり」と訳すことも可能であろう。しかし、この答案には「間違い」と言えるほどの不適切な訳や、はっきりした誤訳は含まれておらず、「大学院入試」では、ほぼ満点に近い点(すくなくとも合格点)がとれるであろう。
 
それに引きかえ、F氏の「解答例」なるもの(「アリストテレスは、政治学は「統治者の学問」である、と述べた。その意味は18世紀になっても変わらなかった。ヒュ−ムが、政治学は「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」ものである、と簡潔に且つ包括的に述べたのは、この意味においてであった」)は、「完全な読み違い」をしており、結果として「何を言っているかわからない」訳になっている。「統治者の学問」という部分で大きく減点され、(政治学の大学院入試であれば)「不合格答案」になってしまうであろう。引用符の位置を勝手に変えている(「扱う」を勝手にカギ括弧の中に入れて、強引に自分が「納得」できるように改竄している)点にも注意。F氏の「解答例」こそ「勝手読み」の典型であり、まさしく「誤訳例」である。



 
さて、私たちのどちらとも、本当に「美しく善なるもの」(そして、本当に「真なるもの」)を知っているとは思えないのですが、それにもかかわらず、私のほうが彼よりも少しだけはマシなのかもしれない。というのは、彼は実は何にも知らないのに「自分は何でも知っている」と思い込んでいるのですが、私は何も知らないが、「自分が何も知らないこと」だけは知っているのですから。――この点で私は彼よりも、ほんの少しだけ優れているのかなァ、などと思ってみたりもするのです。(プラトン『ソクラテスの弁明』)
 
学問にとって平坦な大道はありません。そして、学問の険しい小道をよじ登る労苦を恐れない人々だけが、その輝く頂上に辿り着く幸運に恵まれるのです。(マルクス『フランス語版資本論』への序文)
 
F氏の出鱈目ぶりにはあきれるばかりである。わたしは、あいた口がふさがらない。――むろん、「読み違い」は誰にでもある。教える側がうっかり間違えてしまうことだって、いくらでもある。どんなに優秀な教師でも常に間違える。教える側が、教わる側に教えられるということは、しょっちゅうだ。教育とは、本質的に、教え、教わる、相互行為である。
 
しかし、学校や予備校が、そして教師が、学生・生徒に対して、間違った「読解の基本技術」や「論理展開の基本原則」を系統的に教えるというのであれば、話は全然違う。「哲学」がそもそも間違っているからだ。「教育の方針自体が間違っている」のだ。
 
F氏の「論理」は極めて短絡的(short-cut)である。
 
(1)「何を言っているかわからない」から「誤訳です」→(2)「何故このような誤訳が生じるのでしょうか」「英語の論理展開の基本原則を無視したことが原因です」
 
(1)「何を言っているかわからない」から「わたしの誤読です」「知識不足です」「文脈把握が間違っています」・・・等々、という可能性があらかじめ排除されている。
 
(2)「論理展開の基本原則」を無視した文章はいくらでもある。たとえば、
 
a Leveller statement that since all persons have a equitable right to a voice in elections, therefore the franchise should be given to all men except servants and beggars

(水平派の以下のような発言「すべての人は平等な選挙権をもっている。ゆえに、使用人と乞食を除くすべての男性に選挙権が与えられるべきだ」)
 
Thus the Grass my Horse has bit; the Turfs my Servant has cut; and the Ore I have digg’d in any place where I have a right to them in common with others become my Property, without assignation or consent of any body. The labour that was mine, removing them out of that common state they were in, has fixed my Property in them.(John Locke, The Second Treatise of Civil Government, sect 28)

(このようにして、私も他人も共同で権利をもっている場所で、私の馬の食う草、私の召使いの刈った芝草、私の掘り出した鉱石は、誰の譲渡も同意もなしに、私の所有物となる。私の労働がそれを、それが置かれていた共有の状態から取り出したのであり、こうして私のものであった労働がそれに対する私の所有権を確立したのである。――ジョン・ロック『市民政府に関する第二論文』第二十八節)
 
C. B. マクファーソンは、一見明白な論理矛盾の背後に、当時の人々が自明視していた想定(水平派の例では、使用人と乞食と女性は「完全な人」とみなされていない。ロックの例では、私の召使いの労働も「私の労働」に算入する資本主義的な賃労働関係が前提されている)を見いだして、今では「古典的」名作となった本(The Political Theory of Possessive Individualism, 1962)を書いた。
 
広い文脈の中に入れてみれば、二文間の「論理矛盾」は「解消」されるかもしれないのだ。
 
そもそも矛盾を一切含まないような言説はまず存在しない。それを、怪しげな「論理展開の基本原則」をふりかざし、力業(ちからわざ)で無理やり辻褄を合わせようとすれば、F氏が見事な「手本」をみせてくれたように、「視野狭窄に起因する誤読」や「勝手読み」を誘発する可能性が極めて高い。正確な文章読解のためには、最広義での「文脈」(間テクスト性)に関する知識が欠かせないのだ。それは、時間をかけて、コツコツ積み上げるしかないものだ。
 
もちろん論理的整合性は軽視すべきではない。しかし、F氏のいう「英語の論理展開の基本原則」とはなんであろうか。氏によれば、
 
「この意味で」という表現から明らかなように、 politicsに関する “master science”という表現と、dealing with“men united in society and dependent on each other.”という表現には、論理的に同じものが含まれていなければならないのに、「諸科学の王」という表現と、「社会の中で結合し、互いに依存しあう人間」を扱うものという表現の間には、そうしたものが含まれていないため、両者つながりは非論理的なものになっています。
 
古代ギリシアのポリスにあっては「社会の中で結合し、互いに依存しあう人間」こそが人間の本質であり、人間のすべてであった。そういった人間の共同的本質、共同的人間の最高善(幸福)を扱う学問こそが、すべての学問のなかで「最高の学問」(諸学の王)とは言えないだろうか。だが、F氏によれば、
 
両者の表現が論理的つながりを持つためには、“master science”はdealing with “men united in society and dependent on each other.”(「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」もの)でなければなりません。“master science”は「諸科学の王」ではなく「統治者の学問」(master=ruler)となります。
 
F氏は、「人間を扱う」という表現が、「主人が奴隷や家来を扱う」と同じ「遇する」(支配する)という意味だと「直観」し、「主人が支配する」のと同様に「主人=支配者の学問」が「人間」を支配する(扱う)のだ、と「早とちり」してしまったらしい。そして、その「怪釈」の辻褄を合わせるために、dealing with “men united in society and dependent on each other.”を「社会を構成し互いに依存し合う人間を扱う」もの――dealing withは引用符の外にあるが、「扱う」は括弧の中にある点に注意――と訳し、原文を歪曲してしまったのである。いうまでもなく、大学院ではこのような悪質な改竄は、剽窃と同じく、「犯罪」扱いされる。
 
F氏はいったいなぜ、このような「怪釈」に陥ってしまったのだろうか。その根源のひとつは、彼の――そしてK塾の「テクニック至上主義」にある。
 
そもそも予備校(や、最近では学校)の「テクニック至上主義」には根深いものがある。それは教育の本質とは無縁の「効率」――「ニセの効率」主義である。「ここに誰も知らない(今まで誰も知らなかった)近道(shortcut)がありますよ」と誇大宣伝をして、はじめて商売が成り立つのであろう。「三日でやせる薬」「三ヶ月でアタマが良くなる(美しくなる)××」「努力せずに英会話ができるようになる驚異的教材」を売りつける商売と同じだ。「そんなことはできっこない」――すくなくとも「(例外的な場合を除き)多くの場合はできっこない」――のに、あたかも「いつでも、だれでもできる」ようなふりをして「商品」を売りつける。学問に「早道・近道・抜け道」はない(数学的な「思考の節約」は措く)にもかかわらず、「王道」があるようなふりをして学生をひきつける。これはペテンである。こういった「セールス」のための詐欺は、教育における犯罪行為である。こうした「受験教育」によって、生徒・学生は、つねに「早道・近道・抜け道」を求める安直な「テキトー人間」に育っていく。
 
わたしはかつて次のように書いたことがある(『人文科学系大学院への英語』「あとがき」)。
 
大学院とは、一言で言えば、研究論文を書くための訓練を受ける場である。訓練を受けるという意味では、確かに先人に学ぶ謙虚な姿勢が必要であることは言うまでもない。しかし、研究論文とは、新たな問題を発見・提起し、その問題に対して(一定の手続きにのっとった「客観性」のある)解答・解決策を示した文章にほかならない。研究論文は、単なる「お勉強」の成果の発表ではありえない。研究とは、やや大げさに言えば、人類の知識に新たな知識の小部分を付け加えるものでなければならない。研究論文を書くためには、何よりも問題発見能力を身につけることが不可欠だが、問題を発見するとは、要するに、これまで自明だと思われてきた事柄を自明視せず、人々が自明だとみなしている事柄の中に問題を見出すということである。これは、つまるところ、「常識と権威に反逆する批判的な精神」にほかならない。
 
批判的な精神を身につけ、問題発見能力を鍛え上げるためには、次の二点を志向する必要がある。第一に、確かに一方では、個々の論文のテーマは狭く限定されたものでなければならない(そうしないと一生、論文が書けないことになる)が、他方では、自分の研究テーマを自然・人間・社会を含む世界総体の中に位置づけようと志向すること。それが現実に可能であるかどうかは別として、常に世界全体を見よう・知ろう・理解しようと意気込むことが大切である(総体性の条件)。第二に、これまで自明だと思われてきた事柄を自明視せず、人々が自明だとみなしている事柄の中に問題を見出すことができるためには、歴史の知識とそれにもとづく構想力が不可欠である。自然や異文化の歴史を含む、広い意味での歴史を学ぶことによって、「いまここではXであり、Xであることが自明視されているが、かつてはXでない時代や場所があった。Xが変わること・Xを変えることは、決して不可能ではないのだ」という歴史的な意識・自覚とそれにもとづく構想力を鍛え上げること(歴史性の条件)。
 
〔楡茲陵益やコスト・パフォーマンスばかりを気にする人、近道や抜け道を好む人、F貭イ蠅箚紐蹐鮟纏襪垢訖諭↓ぞ錣忘膿靴離侫.奪轡腑鵑鯆匹いける人、ァ屬澆鵑覆汎韻犬任覆い箸い笋澄廚箸い人は、いずれも自分たちがその上に乗っかっている土俵(パラダイム)そのものを問題にする視点を欠いているという点で、すくなくとも人文科学系の研究者には向かないから、進路変更を強く勧めたい。
 
(小結)「知的な誠実さ」(たとえば「無知の知」、学問に対する「畏敬の念」、自分の至らなさに対するreflectiveな意識、人の意見に耳を貸す謙虚さ・・・、等々)を身につけることも、「大学院入試対策」の重要な一部である。